人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです

タイトルのこの詩は、長崎市にある遠藤周作文学館にある「沈黙の碑」に刻まれてる言葉です。

ざっきーです、今日は、新年最初のブログなので、今年取り組んでいくテーマの一つ、生きていく「あり方」についての事柄を書いてみました。

 

ちょうど、映画としても公開される「沈黙」という遠藤周作さんの名著を、お正月に再度、手にとって読んだりしていまして、自分のための備忘録としてもまとめてきました。

目をお通しいただければ、嬉しいです!

 

さて、僕こと、ざっきーは、経営者専門の保険屋で、大好きな経営者の皆さまにお節介をして、皆さまが取り組まれれている事業の価値を向上することに貢献し、経営者の皆さまを取り巻くリスク(不確実性)からお守りすることを仕事にしています。

 

僕の場合、ビジネスという範囲で言えば、生命保険契約の募集でしか報酬はいただきませんが、仕事ということであれば、僕が勝手に大好きだと思う方のお悩み事を解決することですし、それこそが、僕が、なぜか今の時代に生きていて、この社会にいる意味だと、自分自身で理解しています。

 

そう、シンプルに考えれば、誰かのお悩み事に寄り添えるだけでも、僕は価値があることだと思います。

 

具体的に、きっちり、完全、完璧に解決できることなどというのは、本来できないことなのかもしれません、それは「神」であってもじゃないのかな〜

 

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「沈黙」とは昭和41年に刊行された、遠藤周作さんの小説です。

ご存知の方も多いかと存じます。

 

もちろん、僕が生まれるよりも前に刊行された本ですが、最初に読んだのは中学生ぐらいの頃で、正直、よくわかりませんでした。。。

 

多分そのあと、何度か読んでいますが、、、

僕の場合、いろんな変化があると本も含め、いろんなものを捨てるので「読みたくなる度に買う」ことになります。

 

ちょっと話はずれますが、リサイクルや、リユースには出しません。

ぼんやりとした理由ですが、価値があるものほど、きちんと捨てます(笑)

 

価値があるなら、自分で血肉化してしまって、自分の中に保有するか、また価値の交換手段である「お金」を使って、再度、保有すればいいからです。

 

もっとわかりやすく言うと「保有」というより「所有」ということを、しなければしないほど「自分がきちんと持っている」ことに気付くし、血肉化されたものを使うことができるので、できるだけ持たないようにしています。

 

あの、僕、ミニマリストでもないし、断捨離ストでもないんですよ(笑)本など知的価値の高いものの話です!全部が全部じゃないっす!

 

だって、スーツとか、多分シーズン毎に10着以上あるし、Tシャツだって、減らしたけど100枚以上はあるから…

全部着れない、大バカ野郎です(泣)

 

ただね、ちょうど、僕の師匠のいかりんこと、いかり屋圭子さんも、こう、おっしゃってます、

 

大金持ちの人は整理整頓が上手。

物を少なく持つ。

何故ならば本当に欲しいいいものだけを持つから。選択眼があるから。

帝国ホテルに住んでいた義父のお部屋なんて何も置いてなかった。

整然とスーツと靴がクローゼットに並んで、テーブルの上には文春と新潮とトランプだけ。

なんでも買えるということは、何を買うか選択するということ。

選択できないと汚部屋に住むことになり、お金も循環しないんだろうな。

風通しのいい住まい、風通しのいい心。

(以上、Facebookの2017年1月8日の公開投稿から、一部を引用)

 

僕はお金持ちじゃないけど、いろんな意味でステータスも上がり、収入も増えてくる中で、ある時点からモノを減らしてきました。

物理的に減らさざるを得ないようなプライベートなこともあったけど(笑)それでも、最近は、意識して減らしています。

 

減らしてみると、本当に思考も、生き方も、軽くなる、マジでそうなんですよね。

結果、ビジネス上も、プライベートでも、循環が大きくなって、本当に価値のあるものに巡り合っている気がします。

 

 

でね、話を戻して小説の「沈黙」です。

 

念のため、ご紹介しますが、「ポルトガルのイエズス会によって日本に布教のために派遣されていたフェレイラ教父が、島原の乱の後の長崎で、拷問を受けた末、棄教をした」という、実際の歴史的事実を元に書かれたもので、世界30カ国語に翻訳され、ノーベル文学賞の候補にもなったと言われている著名な小説です。

 

この小説を、タクシードライバーなど、人の内面と暴力ということをテーマに映画を撮り続けている、マーティン・スコセッシ監督が、構想から28年かけて、ようやく映画化されました。

1月21日から公開されるので、予告編のトレーラーがいろんなところで流れていませんか?

 

マーティン・スコセッシ監督は、神学校にも通われてたこともあって、翻訳された「沈黙」を愛読されています。

が、ご自身も神を信じるキリスト教徒であり、映画作家として資料をあったっていくうちに、日本語で書かれた小説が、英語に翻訳されていく中で、物語の本質をなす部分での解釈や意味の違いなど、様々な問題に直面し、映画化に際しては、脚本の段階で相当な困難があったことが知られています。

 

この「沈黙」というのは小説なのですが、主題のひとつが「神の沈黙」です。

 

「神の沈黙」とは、言い換えれば、神の存在を証明することです。

これを小説ではありますが、遠藤周作さんは、沈黙しているのだからこそ、存在しているということが証明されるのだ、と、表現されたと、僕は理解しています。

これに気づいたのは、大学生ぐらいだったけど、それを、今回の映画の予告編のトレーラーを拝見して、思い出しました。

 

 

あらすじとしては、フェレイラ教父が棄教をしたとの報を受けて、キリシタン禁制の日本に潜入する二人のポルトガル司祭、彼らが実際に、日本人信徒たちに加えられる拷問や、悲痛な殉教の現実に際して、ついには自分自身が棄教の淵に立たされるというものです。

そう、最初っからラストシーンは決まっているのです。

 

西洋の、特にキリスト教の価値観では、棄教という意味は「社会的な死」です。

でも、小説に出てくるように、東洋の、日本での棄教は「転ぶ」と称し、曖昧な意味を持ちます。

どちらがいいではなく、そうゆう価値観の違いがあった時に、それが、自分自身が信じてきたものであった場合に、人は何を、どうするのか、という話なんです。

 

そう、経営者の方であれば気づきますよね。経営判断というのは、ともすれば、人生を、自分だけではなく、多くの人を巻きこむ判断なのですから。

 

小説では、登場する主人公たちが、追い詰められ、棄教に至るまで、じっくりと書き上げられていて、ぐいぐい引き込まれる遠藤周作さんの筆というものの凄みを、体験することができます。

 

そして、そこで描かれることは、神の存在であり、その神を信じるというとの意味であり、棄教をするという背徳の心理であり、先ほど書いた通り、当時の西洋と日本という思想的な断絶さえも描きだしています。

 

そして、神は存在しているのか、という永遠の命題について、本当に切ない問いかけを通して、一つの解釈を提示されています。

 

どうぞ、映画も、小説も、一度ご覧下さい。

 

僕は、手元にはなかったの改めて、沈黙を購入しましたが、何と、550円です!

間違いなく、価値>価格です。

 

書籍ってさ、僕思うんですけど、安すぎるって思うんです。

ベストセラーは、後になればなるほど、値段あげればいいのにねって(笑)

 

さて、新年早々に、どうしてこの「沈黙」をお勧めするのかといいますとね、

僕は仕事を通して、いろんな経営者の皆さまに関わらせていただいていますが、

問題の把握ができて、具体的な解決をしようにも、

経営者の皆さまの「あり方」が変わらない限り、根本的な解決にならないことを、

今までの経験として、身を以て体験しているからなのです。

 

一時的には、僕が関わらせて頂けば、数字的にも、具体的にも、いろんなノウハウがありますから、改善はしますよ。

 

それに、すぐにできることはした方がいいし、時間を味方につけるためには、大切なことではあるんですよね。

当たり前ですが、しないよりは、現状を変えるのはいいことだから、それを否定しているんじゃなくて、、、

 

もっと、本質的なところに、問題解決の命題が隠れている、そんなことが多いからなのです。

 

僕自身も、いろんな課題にぶち当たりながら、血を流し、自己を切り刻み、それでも自己開示をし、受け入れがたい事実を受け入れた末に、見えてきたものがあります。

 

小説に最後でこう書かれています、主人公と「神」の内心の会話です。

 

「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそうは言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。

(遠藤周作著「沈黙」より引用)

 

あれもないこれもないと思うのか、すでにあると思うのか、それは個人の内面の問題でもあります。

僕自身は、芸術作品というのは、理解するんじゃなくて「感じる」のがいいのかなって思います。

そう、例えていえば、

今までの自分では、開けることも、気付きもしなかった「心を引き出し」を、ガバッと開かれて、中が見えてしまう。

では、その中に入っているものは、一体なんなのか、それを確認してみる、そんな力があるんじゃないのかなって。

 

そんな「感性」を重視しながら、僕自身もいろんなことに取り組んでいきたいと思います。

僕は開けたことにない、自分の内面の引き出しを開けていこうと思います。その触媒の一つが、この「沈黙」です。

だって、いつ、命の電池が切れるのか、誰にもわかんないからね!

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木﨑 利長

木﨑 利長

ざっきー
1968年名古屋市生まれ。金融機関に勤務。クライアントの事業価値を向上させる事を目的とし、仕事を通して取り組んでいます。
化学メーカーの住宅部門に約9年。1999年2月生命保険会社に、ライフプランナーとして参画。
具体的には、上場企業を含む約80社の親密取引先のご縁を中心に、生命保険契約をお預かりしており、財務や資金繰りといった経営課題ついての改善や、売上を伸ばすための営業研修など、お客様の事業価値を向上させるための具体的なソリューションを提供し、経営者の弱音をも受け止められる担当者を目指し日々精進中です。
 (※このブログでの意見は全て個人の意見であり所属する団体の意見を代表するものではありません。)

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