昔、僕はナイトホークス(真夜中の散歩者)だったんだ。

アメリカの画家である、エドワード・ホッパーの代表作、それがこの一枚「ナイトホークス」です。夜のダイナーを描いた作品で、大都会の孤独を表現していると言われています。

この、背を向けている男性、どう見えますか?この後ろ姿、そして、この雰囲気。

カウンター向こうの、カップルのコーヒーカップの位置、微妙ですよね。

そして、カウンター内にいる店員さんの眼の前に、グラスが残っているのわかりますか?これ、誰かが居た名残ですよね。

画面の右の2/3はダイナーの明かりの中ですが、左の1/31は夜の暗闇です。そこには、人気のない街が浮かび上がります。

そして、背を向ける男性と同じラインにあるのが、レジスター。そう、消費と欲望の象徴です。

 

「芸術は人がわかりあうための手段、

 感性を高めることがビジネスには大切」

 

エクスマの藤村先生に教えていただいた言葉です。この言葉を実践するために、日々を意識していると、いろんなものが心に引っかかってきます。この絵も、めっちゃ好きだったのに忘れてしまっていました、、、

HDDが自動録画していた「美の巨人たち」でナイトホークス取り上げられており、あの頃の気持ちを思い出しました。

 

さて、この絵画には背景があります。僕たちひとりひとりにも小さいけど歴史があるように、否応なしに人は歴史の流れの中を生きています。

アメリカの1920〜30年代は喧騒の20年と言われ、繁栄を謳歌しますが、1929年に起きたウォール街の大暴落に端を発する世界恐慌によって、バブルは弾けます。そう、歴史を意識していれば、もうそろそろブラックスワンが現れる時期じゃないんでしょうかね?リスク(不確実性)とは確率ですから。

 

そんな暗い時代の後、ニューディール政策による財政出動で、ようやく景気が回復してきた時代に、この絵は書かれました。そう、1942年に制作されたんですね。

大都市となっていくニューヨークでは、ダイナーという個人で使う食堂という形式が普及し始め、各地では都市化がどんどん進んでいきます。そしてこの後、アメリカは第二次世界大戦に入っていきます、そんな時代に書かれたものです。

 

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僕はざっきー、経営者専門の保険屋さん。18歳で東京に出てきて、夜の街で働いていました、働く必要がありましてね。

人の記憶というのは面白いもので、昼の学生としても僕と、夜の街で暮らしていた僕とは、ぜんぜん違った生活を、当時はしていました。今になって、どちらが本当の自分だったのか?ということを振り返っても、昼の学生としての自分の記憶がとても薄いんです(笑)

その当時は、若かったし、背伸びもしていましたから、そりゃあ、刺激的だったのは夜の世界でして、その分記憶が強いのかもしれませんね。僕が学生だった頃というのは1980年代、はい、バブル景気という時代の真っ只中に、僕は東京の渋谷の夜に居ましたから。

 

生まれ育ったのが名古屋の繁華街とは言っても、徹底的に遊んでいた訳じゃありませんし(笑)、東京の渋谷なんてのは別世界で、しかも僕が最初に東京に出てきて住んだのは、当時は駅もなかった多摩センターのそば、何じゃこの田舎!って感じでショックでした(笑)

当時はウェブもありませんし、まずは実家を出ることが命題でしたから、大学のそばで選んだのが間違いでした。いろんな人の意見を聞いたり、やっぱり自分より経験がある人の意見に耳を傾けることって大事ですよね。

 

そんな環境ですが、まずは生活し引っ越しするにしても、まず稼がなきゃいけない(笑)でも、若いってのは凄くて、寝る時間を惜しんで、本も読んだし、学んだし、働いたし、遊んだしという貴重な経験ができました。僕、時代に恵まれていたと思います。

僕の場合、親の支援は学費だけだから、稼がなきゃいけないのは当たり前で、そうなると時代もあってバイト先は自然と水商売になりました(笑)とはいえ、お店もバイトにタクシー代など出してくれるわけもなく、始発までは、夜の街にいるのが当たり前だったのです。

 

一番長くしていた夜の街の仕事は「バーテンダー」という職種です。バイトですから、カクテルなどを作る技術が優れているわけでもありませんでしたが、鍛えられました。

水商売とは全て、お客様は付加価値に対してお金を支払うということが当たり前の世界です。なぜお客様は、わざわざ高い価格を支払って、お酒をオーダーするのか、それこそが「商い(あきない)」だと気付くのに時間は掛かりませんでした。

そしてそんな世界では、いろんな人の姿を見たり、知ったりすることになります。だから僕が人の肩書きで左右されないのは、ここでの経験があるのかもしれませんね。

普段は大人しいであろう方が変貌する光景や、大きく強く見せている方の本当の弱さと孤独、物静かな方が滅多に表さない孤独を友とする本当の強さ、正義という言葉の裏側にある損得に満ちた独善、知っていないと知らず知らずに巻き込まれてしまう裏のある社会のルール、他人を拒絶するような厳しさの中にある本当の優しさと誰をも取り込む朗らかさの中にある狂気など、、、

僕なんかもそうですが、人というのは、自分勝手で愚かであっていいと思います。それを意識しているからこそ、美しく振る舞えるのかもしれないからです。

夜の世界では、そんな光景をいっぱい見てきました、そして、そんな矛盾を抱えるのが人だからこそ、人というものに惹かれ、人と関わる仕事を続けているのかもしれません。

 

夜のバイトが終わって、始発電車が走り出すまで約2時間ぐらい、時間を潰すために、いろんなお店に飲みに行くことになります。そこでは、いろんな人と出会いましたが、ちょっとだけ本当の顔を、のぞかせてた人が多かったように思います。

そして、感覚的にですけど、人は原則、独りなんだ、ということを体感することができました。「周りに誰かいるのであれば、それが幸せなんだ」と教えてもらったのも夜の街、そして、人は独りで生まれ、独りで死んでいくことを教えてくれたのも夜の街です。

ある夜のバーの席が隣である、などという関係というのは、浅くも深くもなりますが、その時しかありません。だからこそ、人との関わりを意識すれば、相手の孤独を尊重するがゆえに、無関心であり続けることもあるし、共感するなら一緒に落ちるところまで深くあるべきなのかもしれません。

 

「独りではあるが、孤独ではない、そう思えば、とても生きやすい」

 

うろ覚えですが、その当時に教えてもらった言葉です。この言葉がわかるようになったのは、やっぱり歳を重ねてからです。不条理に満ちたこの世界でも、無理をしないで日々を感謝して生きていくためにも、僕のとっては、とっても意識したい視点です。

 

ナイトホークスというこの絵画は、都市の孤独を表現していると言われますが、僕はとても惹かれるんです。

夜の街の暗闇に明かりが灯っていて、そこには人がいる、独りでいる人も、独りを避けて二人でいる人も、独りでいることに耐えかねて帰った人も、そして独りでは働いている人も、夜も街では独りを感じやすいのかもしれません。

でも、そこには、灯りが灯っているんですよね。たまには独りで、知らない夜の街を散歩してみると、独りと孤独の違いを感じることができます、頭で考えるんじゃなくて、感じる。これが芸術なのかもしれません。

このナイトホークスは、シカゴ美術館に常設展示されています。普段は17:00に閉館ですが、木曜日だけは20:00閉館だそうで、この絵を見てから、シカゴの街に繰り出してみるなんてのも乙ですね。マイルが溜まっているし、行ける時に行かないとね。

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木﨑 利長

木﨑 利長

ざっきー
1968年名古屋市生まれ。金融機関に勤務。クライアントの事業価値を向上させる事を目的とし、仕事を通して取り組んでいます。
化学メーカーの住宅部門に約9年。1999年2月生命保険会社に、ライフプランナーとして参画。
具体的には、上場企業を含む約80社の親密取引先のご縁を中心に、生命保険契約をお預かりしており、財務や資金繰りといった経営課題ついての改善や、売上を伸ばすための営業研修など、お客様の事業価値を向上させるための具体的なソリューションを提供し、経営者の弱音をも受け止められる担当者を目指し日々精進中です。
 (※このブログでの意見は全て個人の意見であり所属する団体の意見を代表するものではありません。)

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